粟田焼を復興させた鍵屋安田の安田浩人氏
京都の陶磁器発祥の地が粟田口。京都に入る七口の一つとして、東海道・中山道とつながっていました。ここは、1624年に瀬戸の陶工が窯を開いた場所で、京焼発祥の地とも言われています。今でも、この東山の地には、多くの寺院が連なっており、京芸術の中心です。
ただ、この地名を取った粟田焼は、一度、滅んでしまいました。しかし、粟田焼の窯元「鍵屋」の後継者である安田浩人氏が、復活させています。
粟田焼の末裔「鍵屋安田」の安田浩人さん
江戸時代初期から公家や大名の間で人気だった粟田焼。安田家は、鍵屋という屋号で、多くの職人を抱えて茶器や懐石料理の器を作ってきた窯元でした。明治時代には、海外で起きたジャパンブーム(ジャポニズム)の波に乗り、粟田焼は薩摩焼の金襴手技法に優れたデザインを施した【京薩摩】として人気が出ました。
この時期、多くの陶工や金工師たちが、海外向けの商品を作って輸出しています。
安田家は、貿易にも力を入れて、欧米との取引を増やしたのです。ところが、世界恐慌そして二度の世界大戦により、京都陶磁器合資会社の資産は全て没収。これが、粟田焼の終焉でした。その後、伊東陶山氏や楠部彌弌氏が、受け継いだものの跡継ぎに恵まれずに粟田焼は完全に姿を消してしまいます。
これではいけないと、立ち上がったのが安田家の子孫である安田浩人氏。大学を卒業後、陶芸の道に進み窯元を再興させて、「鍵屋安田」を継承しました。
作風は粟田焼の基本である黄色味のある貫入の入る釉薬。絵付けは染付や京薩摩をアレンジ。
少し黄色味又は灰色を帯びて、細かい「貫入」と呼ばれるひびの入った様なうわぐすりの生地に、銹絵染付の様なあっさりした絵や、緑・青を基調に赤・紫等の色使いをした色絵ものが最もポピュラーです。が、これまでお話しました様に、実際は時代によっては瀬戸ぐすり的なもの、信楽写し的なもの、薩摩様式の絵付、アール・ヌーボー調、はたまた個人作家の作品的なものまで様々です。そのすべてがここ、粟田の地で焼かれた焼き物なのです。
私の好きなのは銹絵染付の絵付のある江戸時代の粟田焼です。何とかいにしえの粟田焼の風格をそなえた作品をと願うのですが、なかなかうまくいきません。
安田氏の作る茶碗や水差しは丸みを帯びた形が多く、どこかユーモアを含みます。絵付けは派手ではなく上品。器を手に取るとなぜかふっと心が和むような気がいたします。写真で拝見した手付贅尽くし水差しは、コップのフチ子を思わせる品です。フチ子の方が後世の作品だと思いますが。
参考サイト