宇治川先陣争いの碑:佐々木高綱と梶原景季の渡河勝負

源義経が、義仲軍と戦った時、梶原源太景季(かじわらかげすえ)と佐々木四郎高綱(ささきたかつな)が先陣を争います。

その記念碑として建立された「宇治川先陣争いの碑」は、橘島にあり、周囲を散策する人を楽しませています。 この碑があることは、宇治周辺の人には、あたりまえすぎて、注目されていないのが玉に瑕。

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宇治川先陣争いの碑は、中洲の橘島にあり

こちらが、宇治石で作ったという宇治川先陣争いの碑。塔の島・橘島と平等院そばにある中洲を利用した島の中に建てられています。

宇治川先陣争いの碑

義経VS義仲:宇治川先陣争い

かの有名な源平の戦い。その渦中で起きたのが、木曽義仲と源義経の戦い。

平家打倒に成功した義仲は、都での乱暴や後白河法皇との不仲などで、英雄から悪漢へと転落。源頼朝に討たれる身となりました。

後白河法皇から義仲追討を命じられた頼朝は、範頼・義経を遣わすことに。そして、京の手前。宇治川にて、義経軍と義仲軍は激突。

この合戦の白眉は、義経側の先陣争いであった。流れが急な宇治川を競って渡ったのは、池月に乗った佐々木高綱と磨墨に乗った梶原景季の両名である。池月・磨墨とも頼朝秘蔵の名馬であったが、先に池月を所望した景季に対して頼朝は代わりに磨墨を与え、後から所望した高綱に池月を与えた。さらに上洛の途上、高綱が池月に騎乗しているのを見た景季は憤激するが、高綱の「盗んできた」との嘘の言い訳を受け入れていた。両者とも先陣の功名を得ようと必死になるだけの理由があった。

先に進み出たのは景季である。負けじと高綱が追いすがる。ここで高綱「馬の腹帯が緩んでおるぞ」と景季に声を掛けた。慌てて腹帯を確かめる景季を尻目に、高綱の乗る池月は宇治川に入っていく。そして池月は急流をものともせず、高綱も川底に仕掛けられた大綱を太刀で切り裂き、とうとう川を渡りきって先陣の名乗りを上げたのである。宇治川の先陣争い

梶原景季と佐々木高綱の手柄争い

源平の戦いは、武士の手柄争いの面もあり、先陣を取れれば、論功行賞にプラス。そのため、かの有名な梶原景時の息子「景季」と近江の佐々木庄を地盤とする佐々木高綱。

当時、武士は、名乗りを上げてから勝負をしていたように、名を上げるということにこだわっていた時代。実際、源平合戦で活躍した梶原氏も佐々木氏も頼朝の信頼厚い部下=御家人として、所領も地位も得ることに成功しましたからね。

宇治川は、当時も今も急流。何しろ、琵琶湖から流れ出る河は、宇治川一本だけ。そのため、水量・水深ともに、なかなかの深さ・激しさです。浅瀬はまだしも、本流の深いところは、本当に危険。

寒バエ釣りのおじさん達には、いつも感心するほどの速さ・寒さ・勢い。

ここに、敵の弓矢が降ってくるので、下手したら、渡りきれずに討ち死にという可能性もあったわけです。幸い、佐々木・梶原の両名は、生き残り、今も宇治川先陣争いの碑に名が残る手柄を上げました。

先陣争いの碑は、宇治石で作られている

宇治石:海底火山で形づくられたとされている石。天ヶ瀬ダム及びその上流で採掘されていましたが、ダムが作られたため、鳳凰湖の底に沈んだまま。茶臼や灯籠に使われていたそうです。

・・ 宇治川先陣之碑 ・・・
古代より古墳の石棺などによく用いられ、水に濡れるときわだつ緑色が特徴です。また、金が含ま れると“金たれ”、銀が含ま れると“銀たれ”と呼ばれ、茶うすにも珍重されました。「宇治川先陣之碑」のほかに、平等院鳳凰堂の正面の庭にある灯籠も“宇治石”でできています。

尚、実際に先陣を争って川を渡った場所は、「宇治川先陣之碑」のある府立宇治公園 橘島より下に掛かる宇治橋の下流あたりであったといわれています。料理旅館:鮎宗

宇治川合戦図屏風:江戸時代 紙本金地着色 屏風装(六曲一隻)

宇治川合戦図屏風

昔から、平家物語や源平物語の題材として有名な話だったので、多くの絵も描かれています。


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