平安貴族&豊臣秀吉が愛した巨椋池干拓地の過去と現在

京都の南を流れる宇治川。そこには、巨大な湖として過去に「巨椋池」が存在しました。現在は、干拓されて水田・畑・宅地になっています。

今もかなりの広さを誇る水田・畑が残っていることから、京野菜・お米の産地であるとともに、探鳥地として鳥達の楽園としても有名。京滋バイパスなどが通ったことから、鳥の数や種類は減っているようです。

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また、この巨椋池干拓地及び周辺は、少量ながらお茶を作っており、丸久小山園の本社及び最高級茶畑があり、京都・宇治名産品の一つ。

平安貴族が愛した巨椋池

平安貴族達は、猛暑の京都から東西の山間地及び南の巨椋池・宇治川に涼を求めて避暑に出かけました。藤原道長・頼通親子が宇治を好み平等院を築いたのは有名な話ですよね。現存するのは宇治川だけですが、そのそばに巨大な湖があったのです。

古くは源平の合戦で、宇治川を渡る先陣争いにおいて流れの激しい急流と称されるように流水量の多い激しい川。そのため、のんびりと舟にのって歌を詠むような余裕はありません。その点、巨椋池は、当時、京都最大の淡水湖で周囲16kmもの大きさを持つ湖でした。湖には蓮の花が咲き、緩やかな流れの中で舟をこぎ出すと、秋は宇治の山並みが赤く染まり、冬は時折、雪がちらつく絶景の地。

豊臣秀吉が愛した巨椋池

戦国時代の覇者、豊臣秀吉も宇治川&巨椋池を愛した人物の一人。晩年の彼が住んだ城は宇治川の北側の【伏見城】。すぐ南には宇治川が流れ、宇治川とほぼ一体化した巨椋池が存在しました。

ここなら、湖からの涼しい風に吹かれ、水面を眺めて日頃の疲れを癒すことができます。しかも、鯉・鮒・鮎など多くの魚にも恵まれ、それを餌にする水鳥も多数いたことでしょう。釣り・鷹狩・紅葉狩なども楽しめた場所。

さらに、秀吉の愛した側室の淀君が住まいとした淀城もすぐ近く。川を下っても馬や徒歩でもわずかの距離。京都と大阪の間(かなり京都寄り)にあって、政治・文化の中心地として、当時の伏見は大いに栄えました。

巨椋池と秀吉

出典:近畿農政局

今は、干拓地の一部を住宅地化して、京都・大阪のベッドタウンとして多くの市民が暮らしています。小倉町には、遊田・南遊田・砂田など田んぼにちなんだ地名がたくさんあり、かつては干拓田だったことを彷彿させます。

巨椋池の地図

太閤の夢の農地:巨椋池干拓田 出典:水上の礎

当時は、環境保護よりも農地生産の方が重要だった時代ですから、貴重な水産資源&環境よりも田んぼを増やして、食料生産力と人口増加を選択して、1941年に景勝の地だった巨椋池はこの世から消えました。

国営干拓事業は1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて行われ、巨椋池は干拓され、農地になった。干拓後の農地における用水利用を考慮し、池の底部を小倉堤や池に点在した島で埋めた程度で、ほとんどがポンプを用いた排水によって干拓された。wiki

幼いころは、この干拓田と縦横に走る用水路が良い遊び場所でした。春から秋にかけては、鮒・鯰釣り、その合間に亀や蛇・カエルを捕まることにいそしんだものです。冬は広大な干拓田で凧揚げをしました。

人口の急増に伴い、ところどころに残っていた湿地や空き地が小学校や家に変わっていきました。南小倉小学校が出来る前の湿地など巨大ザリガニの住処でした。ポパイと呼ぶ巨大なザリガニを泥だらけになってたくさん取って遊んだことを覚えています。

普通に観光する場合、伏見の町や宇治川の平等院沿いに行っても巨椋池跡に来ることはありません。足利義昭が立てこもった槙島城も石碑一つだけ。

そのため、観光で巨椋池干拓田を見ることはないと思います。車で京都から大阪や奈良・滋賀に向かう時に、国道1号線や24号線、京滋バイパスから巨大な農地を見ることになるでしょう。その時は、脳裏に巨大な湖と野鳥の姿を思い浮かべてみてください。

淀大根など宇治から久御山町にかけての京野菜は美味しいですよ。


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