蛤御門の屋根

蛤御門で来島又兵衛は、壮烈な討死を遂げる。

幕末、長州藩には、武士の極みのような志士たちが勢ぞろいしていました。その一人、来島又兵衛は、御所の蛤御門で壮烈な討死。

司馬遼太郎氏の「竜馬がゆく」では、来島又兵衛の人となりを高杉晋作以上とも言える精神の持ち主として描いている程です。

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来島又兵衛、蛤御門で討死

京都御所の蛤御門には、来島又兵衛討死の表札もあります。

来島又兵衛討死
遊撃隊総督だった来島又兵衛が、1864年、この椋の木付近で討死。清水谷家という公家の屋敷にあった椋の木と言われています。

竜馬がゆくにある来島又兵衛の生き様。

君辱めらるれば臣死す

史上、永久に朝敵の名が残るかもしれぬ。それを雪ぐのに理屈もなにもない。藩の安危などもどうでもよい。万世に汚名が残るか残らぬかの瀬戸際だそ。晋作。暴発、あるのみ

元禄の頃、赤穂藩にも慰留・常識派がいた。男というものは思慮極まれば、常識・情勢をもって判断すべきではない。男たるものの道をもって判断すべきだ。

自らの生死どころか藩自体の存続よりも汚名を雪ぐことの方が重要という来島又兵衛の勢いに、高杉晋作は飲まれてしまう一節は、血が沸き踊る名文。当時の志士達の武士道・男たる道を示しています。それゆえに、命よりも金よりも恥・信念に殉ずる男たちが大勢いました。

しかも、来島又兵衛は48歳。すでに分別を知る老年に差し掛かっている年齢ながら、惜しげもなく命を捨ててしまいます。

幕末、尊王攘夷運動が激化する中、長州藩が支持する三条実美・姉小路公知を筆頭とする急進派が朝廷の支配権を握り、幕府に尊皇攘夷を迫りました。その状況のなか、会津・薩摩を中心とする公武合体派が、長州派の公卿を追い落とし、長州藩も京都から追い払うクーデーターが起きてしまいます。8月18日の政変。

これを不服とした長州藩は、会津藩主兼京都守護職の松平容保たちの排除を狙い、上京して京都市街で戦いを繰り広げることになります。この戦いを禁門の変と呼び、長州を朝敵とした第一次長州征伐が実行されて、一時的に尊王攘夷派は地からを失います。

薩賊会奸という長州側からの呼び名は有名。

長州は、天皇および朝廷自体の権威は認めており、傍でけしからぬ輩が、天子の意思に反した政治を行っているという立場。中国三国志の英雄「曹操」が、治世の能臣・乱世の奸雄と呼ばれたのと同じような意味になりますね。

久坂玄瑞は、長州藩の罪を許して欲しいと嘆願書を朝廷に建白するなど、融和を図るも難しく。かつ、当時の孝明天皇は、会津藩を信頼しており、長州掃討を命じていました。すなわち、来島又兵衛が、天子に閲覧することができたとしても、彼の希望通り、長州が許されたどころか、御所を襲撃したとして朝敵の名が確定していた可能性の方が高いのです。

蛤御門

来島又兵衛は、天子にさえお会いできればと願いながら、志半ばで討死。

蛤御門の石碑

京都御所に旅行された時は、ぜひ、蛤御門にお寄りください。

 

 


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